守谷城主下総相馬氏略年譜
①初代師常(1139~1205)
源平合戦時は、父千葉常胤に随い源範頼(のりより)を大将として参戦、「壇の浦合戦」では豊後国へ渡り、平家の退路を遮断した。鎌倉に於いては頼朝の建長寿院建立の参列、頼家の初めての御甲(おんよろい)に常胤の子等と参列します。

相馬師常の墓

相馬師常の墓

文治5年の「奥州合戦」に千葉一族がこぞって参戦、師常は頼朝から「さうまの次郎」と呼ばれ、この事から「相馬御厨」を支配する領主として認められます。
千葉氏一族の中には、上総常澄系の常清が「相馬九郎」を名乗っていましたが、広常に連座し以降名を変えています。
常胤は、奥州合戦の論功行賞として、行方郡・亘理郡・岩城郡好間庄ほかを拝領しています。その内、行方郡は師常に譲渡されました。その後も、師常は頼朝の上洛や東大寺の大仏殿落慶供養に参列していますが、元久2年、行年67歳で亡くなりました。墓は鎌倉のやぐら墓(鎌倉市指定文化財)です。
②2代義胤(  ~  )
「承久の乱」の経過を記した『承久記』によりますと、宇治川の渡河作戦で、相馬三郎・太郎・次郎の3人が戦死しています。『寛政譜』では、五郎義胤の戦功としています。義胤は恩賞を受けたらしく、元仁2年(1223)の「関東下知状」(後藤文書)に、越後守護代に就いていたらしく「前守護代相馬五郎」とあります。また、貞応2年(1223)の淡路国太田文に、炬口(たけのくち)庄(洲本市)「新地頭相馬小次郎」とあります。
③3代胤綱(  ~  )
4代鎌倉将軍九条頼経の新御所渡御に供奉や上洛に随兵しています。胤綱は後家相馬尼(天野氏養女)を貰いましたが、相馬尼は先妻の子で嫡子と思われる胤継を義絶(勘当)しています(「相馬胤綱子孫系図」)。この頃、相馬家から幕府の御家人役を勤めていたのが、胤継と相馬尼の子胤村でしたが、正嘉2年(1258)3月の宗尊親王の二所参詣に際しては、相馬左衛門(胤綱)跡を天野左衛門尉が務めています。すでに、この頃、胤継は義絶され家督を継いだ胤村は病気で、止むを得ず相馬尼は実家の天野左衛門尉を代理に担いだと思われます。
④4代胤村(  ~1272)
胤村は急逝したらしく、譲状も作成されず『相馬家文書』に、「相馬胤村譲状案」というべき文書と「永仁2年相馬氏配分系図」が残されていますが、これは胤村の死後「後家阿蓮(あれん)と当腹嫡子彦次郎師胤の合作」とされています。当時の武家社会に於いて、夫亡き後の後家は亡父の家長権を代行できたといいますので、阿蓮の行動を悪とはいいませんが、先妻の子胤氏や五郎左衛門尉師胤が、幕府に濫訴したのも判ります。
⑤5代胤氏(  ~  )
永仁5年(1297)6月の「関東下知状」で、胤氏は重胤所領の高村(南相馬市原町区)を横領したと、重胤に訴えられています。これは相馬家の惣領を自任する胤氏の暴挙ですが、もしかすると、相馬家の惣領争いの発端かも知れません。

⑥6代左衛門尉師胤(  ~  )
胤氏の嫡子。先妻の子胤氏と尼阿連の子彦次郎師胤の兄弟争いに発した土地争いが原因で、左衛門尉師胤は幕府により濫訴と見做され、所領三分の一が没収されました。没収された土地は、北条得宗家の被官であり、御内人(みうちびと)の筆頭長崎思元(しげん)に与えられました。北条得宗家が専制的政治を展開しようとする時、その被官もまた強引な手段で他氏族の所領を横領する事があり、幕府崩壊の因ともなっています。なお、左衛門尉師胤は、『寛政譜』では存在を無視され、弟の胤基に譲っていますが、ここでは師胤は嫡子扱いです。また、『太平記』で大活躍する、下総国の住人、相馬四郎左衛門忠重は、師胤の弟、相馬胤重と思われます。
系図に見るように多くの兄弟への所領の配分相続の繰り返しで、特に相馬家は2代に亘る相馬尼と阿連の後家の「当腹嫡子」と、先妻の子と思われる「惣領家」との土地配分で争いが絶えませんでした。訴訟を繰り返した「惣領家」は幕府より濫訴とされ、左衛門尉師胤は所領3分の1が没収され急激に没落したようです。
⑦7代胤基(  ~  )
⑧8代胤忠(  ~  )
⑨9代胤長(  ~  )
⑩10代胤宗(  ~  ) 海禅寺の「中世相馬氏位牌」の冒頭に記載される。
⑪11代資胤(  ~  )
⑫12代胤儀(  〜  )
⑬13代胤高(  〜1541)
⑭14代胤実(  〜  ) 常総市の一言主神社の社殿を再建。
⑮15代徳誕(  〜1525)
⑯16代胤広(  ~  ) 古河公方の正嫡争いで、公方を応援。
⑰17代胤貞(  ~  )
⑱18代胤晴(  〜1546) 「河越夜戦」で戦死。
⑲19代整胤(1544~1566) 家臣により殺される。
⑳20代治胤(1541~1602) 上杉謙信に随い「小田原城攻め」・「臼井城攻め」参戦。
北条氏政に随い「関宿城攻め」・豊臣秀吉の「小田原合戦」で籠城。

奥州相馬氏が移住した当時の事情
鎌倉時代の末期、北条得宗家の権威は地に落ち、実権は内管領長崎高資らが掌握していましたが、その専制政治は御家人の反発を招いていました。相馬家では左衛門尉師胤の濫訴による罪科で所領1/3を収公され、その領地は御内人(みうちびと)の筆頭長崎思元に与えられました。元亨元年(1321)10月、御使岩崎・結城が現地に派遣され、重胤の所領地まで横領されそうになり重胤は奥州の所領を守るために奥州への移住を決意します。