守谷の将門伝説の発端は古く『将門記』に「王城は下総の亭南に建つべし」とあり、鎌倉時代の『平家物語』には「下総国相馬郡に住して八ヵ国を横領し」と記され、室町時代の『神皇正統記』・『太平記』にも「相馬郡に都を建て」とあります。これらの著述と下総国相馬郡の守谷城は戦国時代まで、平将門直系の相馬氏の居城だったことから将門の相馬内裏は守谷であると比定されました。

将門城址『利根川図志』赤松宗旦著

将門城址『利根川図志』赤松宗旦著

江戸時代に入ると将門人気は高まり、浄瑠璃・歌舞伎・錦絵には「相馬内裏」や「相馬古内裏」として数多く登場します。なかでも宝田寿助の常磐津の舞踊劇「忍夜恋曲者」(しのびよるこいはくせもの)通称「将門」は現代でも歌舞伎などで上演される名作です。さらに守谷城址を訪れた文人たちの詩歌や紀行文は素晴らしいものです。

将門古城一見の時
米かみの 動きや麥の穂の戦(そよ)ぎ    溝口素丸
溝口素丸 俳人  御書院番を勤めた旗本、門人に小林一茶がいる。寛政七年(一七九五)没

将門旧迹所〲に有
蚊の声や 将門どのゝ 隠シ水       櫻井蕉雨
櫻井蕉雨 俳人  文化七年(一八一〇)六月に西林寺義鳳上人の許へ一茶を案内した時の句

相馬京旧懐
梅さくや 平新皇の 御月夜        小林一茶
小林一茶 俳人  文化七年から文化十四年の間九回守谷の西林寺を訪れる。文化八年正月の句

賀治世
松陰に 寝てくふ六十よ州哉        小林一茶
鶴と遊ばん 亀とあそばん         鶴  老
鶴老 西林寺六十四世住職義鳳上人、一茶と同じ信濃の出身で鶴老は俳号。文化九年正月の連句

いくとせか ふる井の底の たまり水 
   千世に濁れる 名こそ埋もれぬ    清水濱臣
清水濱臣 国学者・歌人 『総常日記』を著わす。文化十二年(一八一五)四月に守谷来遊の時の歌

たつ波の 風に荒けん 辛島の
   廣江はあせて おともきこえず    高田與清
高田與清 国学者  『相馬日記』を著わす。文化十四年(一八一七)八月に守谷来遊の時の歌

承平の むかしもかくや 舞ひばり    十方庵敬順
十方庵敬順 僧侶 以風は俳号 『遊歴雑記』を著わす。文政三年(一八二〇)三月に守谷来遊の時の句

将門城址『相馬日記』高田與清著

将門城址『相馬日記』高田與清著